いくら加熱しても葉が溶けてくれない.明日まで放置しているけど無理かも.難しいなあ.
今日は某動画サイトで懐かしい音楽を見たり,ユーロビジョン・ソング・コンテストの様子を見たりして時が過ぎた.懐メロのPVとか踊りとかっていまの北欧チックでいいよなあと思っていて,ただ某ゲームの振り付けとどう違うのかうまく説明ができなくて困る.似ているものもあってじゃあ某ゲームでいいじゃんとかなりそうなんだけど,現段階では個別に好き嫌いをということにしている.そんな某ゲームからよく聞く歌がカバーされているらしくついでに見てみたら間奏に新たな詩が挿入されていて自分はこれは駄目だと思った.この詩を入れてしまうことによって原曲をぶち壊している(気がする).歌い手自身の感情というか現状やらなんやら入ってしまって,嗚呼この歌はこの人のためにこのひとが歌っっているんだなあと感じてしまった.そういう意味では成功していると思う.(それ以外は余り気に気にないからだからこそ惜しい).こういった語り部分は本当に難しいんだろうと思う.そこで一つの寸劇をしなければいけないわけで.とくに自分語り,~してくれるのでしょうか(感嘆)とかはギャグ(自虐的)だったらいいのだけど中途半端にこられると駄目だしその歌い手を固定してしまうから向いていないものには向いていないし,さじ加減が難しいだろうなと音楽に疎い僕は思う.
僕はラジオが大好きでよくそこから音楽を聞く.ラジオから流れる音楽って毎日変化があるというか「流行歌」が聞けて時代を感じたりするのがよくて,人単位ではなく曲単位で選びたいなあと思ったりする.とくにこの流行歌いいよなあと思ってもその人のほかの曲きくとあんまりそうは思えない時が多いから.でも思い入れの強い人がもいるわけで上の記事のようなことを書いてしまった.やっぱりこうなってしまうと自分の中でどうしても偏りが生じてしまってもう固定概念がらはずれることができなくなっていて自由でない,まずいなあと感じる.聞き繰り返すことによってその人とかその歌とかより深くというのも悪くはないのだけどそれによって流行歌そのものを聞くといったことと外れている気がして・・・きっと僕はまだまだ音楽というものを知らないのだろうね.
こんなきじ本館ではあんまり書いてこなかった気がする.やはり隠れブログだから書いてしまうのか,おっかないなあと思った.
0 件のコメント:
コメントを投稿